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〜「撮ること」ではなく「創ること」〜
写真を撮り始めてから『Archetype 1』に至るまでに、25年の月日がながれました。 幾つかの出会いと思いの積み重ねの結果としてこの作品ができ、また今後の作品が生まれていきます。そんな思いで、これまでの歳月を振り返ってみました。
1970年、巷にまだ学生運動の風が吹き荒れていた頃、立教大学に人学した私は、ふと気がつくと写真部におりました。その頃の写真部では,先輩や同級生が「広島だ!佐世保だ!成田だ!沖縄だ!」と叫んではカメラ片千に飛び回っていました。彼らを横目に「写真て何なのだろう、写真で何ができるのだろう」と、私はじっとたたずんでいました。 数年が過ぎ、あれほど荒れ狂っていた政治の嵐もやみ、先輩達は過激な言葉は捨てて、長い髪を切り、リクルートスーツに身を包んで会社訪問に飛び回るようになりました。私は勿論まだ自らの問いに答えは見出せず、「このまま数年すれば、俺も彼らのようにこの社会の歯車になるのか」と思うと、それに我慢ができず、とにかくレールから飛び下りることが唯一最良の選択だと決めました。そして大学を止めました。 その後の数年間は、バィトをして多少の余裕ができるとカメラを持って何処かへ旅に出るという蝸牛のような日々の繰り返しでした。そして相変わらず「写真て何なのだろう,写真で何ができるのだろう」と思いを巡らしていたのです。
人さまに言わせると「好き勝手な日々」を送りながら二十代も半ばを過ぎて,さすがにそろそろ焦りを感じ始めだしました。心の中で「俺は天才なんだ」と思おうとしても、なんの実カもなく,実績も積んでこなかった事をいちばんよく知っていたのは私自身です。 でも運命とは良くしたもので、そんなときに一人の写真家と出会い、彼が私を拾ってくれました。私の『問い』を理解し、この問いを解くのに必要なのは「考える」ことではなく「撮影する」こと、まずは撮れるようになることなのだと、教えてくれました。私は彼のアシスタントとなり、彼を師匠と呼ぶことにしました。師匠と出会いとこの修行期間がなければ、今でも趣味の領域から抜け出せずにいたことでしょう。 その師匠も昨夏、彼岸に旅立ちました、合掌・・・・・・・・・・。
三十代を目前にしてようフリーとなった私は、自分の作品のテーマを求めて試行錯誤を繰り返していました。そんなときに畑違いの水彩画の先生と出会ったのでした。 そんなでしたので '87年に漸く自分の納得できる映像が撮れて、新宿ミノルタフォトスペースで初の個展『神棲む谷』が開けたときには、夢のような気持ちで一杯でした。 個展が終わると何故か仕事も増え、ある日そのなかに海外取材の話が紛れ込んでできたのです。それまで一度も海を渡ったこともなく、だからパスボートすらもっていない私に,何であの時あんな仕事が舞い込んんだかの今でも不思議ですが、とにかく大急ぎで手筈を整えて一ヶ月後には初めての海外、チューリッヒの空港に降り立っていました。これがきっかけで、これまでは自分のなかを、日本のなかを向き、足元を見ようとしてきた私の視点が180度回転し、私達とはまったく異質の文化を持つ人々の暮らしを見きわめたいという好奇心がむくむくと湧き上がってきました。年に数回、稼ぎになろうがなるまいが、とにかくヨーロッパに行けるならどんな仕事でもかまわないと、海外取材の仕事をみつけては海を渡り、仕事が終わると数週間あちらこちらを放浪しての帰国を繰り返しました。 そしてニ年目、それはフリーになってから十年目の年でもありましたが、これまでの東京での仕事をすべて整理して、とうとうヨーロッパに住む決心をしていたのです。
選んだ町は、オーストリア三番目の都市、ザルツブルク。この町を選んだ理由を数えてみろと言われれば、幾つでもあげられますが、でもいちばんしっくりくる理由は「偶然という名の運命」が運んでくれたということです。振り返ってみれば、遠山もやっぱり偶然が、私をそこへ導いてくれていたのです。
海外での暮らしに最初の一年間は、右も左もわからず勝手の違う生活に馴れるのに精一杯でしたが、こちらも仕事を投げ出しての冒険です。カメラを握らないわけにもいかず、そんな中でまず始めたのが劇場の舞台の撮影と教会建築の撮影でした。やがてニ年目に入り、少しは落ちついてまわりを見渡せるようになったとき、20年来抱えていた例の『問い』の答えが向こうから歩いてきてくれました。
「私の望んでいたことは、『写真』を撮ることではなく『Photograph』を創ることだった」片方に「真実を写す」という写真があり、もう一方に「光で描く」というPhotographがあります 「写真における真実なんて所詮物体の形を如何に精巧に複製するかでしかない」と思い切ったとき、「光で何を描きたいのか、それをどう描きたいのか」という具体的な問題と直截的に向かい会うことができました。こうして、いま私の前に横たわり、この天恵を与えてくれたザルツブルクという町の光を描くことが、新生第一の仕事となりました。
残された一年半の時を使って『エロヒム』という作品を創りました。ポスタリゼーションというポジネガ合成の手法を使い、光の持つカでノーマルな視覚世界をいちど破壊し、再構築した作品でした。それは単に対象である視覚世界を破壊するだけではなく、写真に囚われてきて身についてしまったポジ(現像)にたいする信仰を壊し、ネガ(潜像)にもポジと同等の存在価値を見出すという従来の常識の破壊でした。同時にこの体験は、これまで身についた日本社会の固定観念からも私自身を解放してくれたのでした。 こうして'92の秋に日本へ帰ってきました。このとき私が考えていたことの一つは、勿論ザルツブルクで創った『エロヒム』の発表であり、もう一つは彼の地で物創りとして体験できた環境と同じような環境の地を、この日本の中に見つけ出すことでした。 作品発表のほうは、帰国の翌年に前回と同じ新宿のミノルタで個展をすることで目的を果たしました。そして創作環境のほうも、これまでのコマーシャルを主体とする東京でのカメラマン生活を捨て、今から3年前に伊那谷の高森町に古い家を見つけ、東京を脱出することができました。少なくとも自然環境という意味では、ザルツブルクと遜色のないものを手にいれることができたのです。
今回インターネット誌上に発表している『Archetype 1』は帰国してからのこの3年間毎夏ウィーンへ行く度に撮影してきたものをまとめたもので、『エロヒム』に続くオーストリア第二弾です。 エロヒムでは描くために対象の破壊が先ず第一にありましたが、今回は「破壊」から「何を描くか」に重点を置いて取り組んできました。私達の日常意識からは抜け落ちてしまう対象の持つ意味、固定観念によって見捨てられてしまう対象の本質へと「どれだけ見ることの意識を集中することができるか」ということがテーマです。 "Archetype"というのはC.G.ユングが好んで使った心理学用語で日本語では『元型』と翻訳されています。私はその言葉を「物をもの足らしめている力」と理解しています。 例えば私の窓からは南アルプスの山並みが屏風のように見えますが、これにレンズを向け、刻々と変わりゆく自然の美しさに感動してシャッターを切り,その感動を伝えるのが写真なのかもしれませんが、それだけで良ければ「山を前に一日座して眺めていればこと足りる」と思いませんか。実は山を前に一日座していれば、山はその美しさ以上の何かを訴えかけてきてくれます。そのためには、対峙している自分自身が真っ白にならなければなうません。真っ白になるとは,人間が対象に与えた「山」という呼称の概念から自由になることであり、それは同時に自分が自分という存在から自由になることと表裏一体です。このとき初めて自分と自分の外との垣根が取り払われ、一期一会の交歓の祝祭が執り行われます。自分がこの瞬間にここに存在し、同じく彼のものが存在する。彼・我の立脚点が一致したとき存在の深淵が露出される。ここに露出されたものをArchetypeと呼び、これを視覚化し、記録することこそが、私にとってのPhtographだと思っています。
『Archetype 1 - 元型としてのウィーンの風景 -』 ここに写されたもの達の名称や概念だけに感情を動かされるのではなく、感情の不純物を取り除いて、純粋感覚としての視覚を画面の上に巡らしていただいたとき、貴方の心のスクリーンに非日常の何かが浮かびあがってきたとしたら、ぜひそれが何者であったかを私にお伝えください。
不可思議の現し世の Photgrapher 中川賢俊
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